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zoom RSS 第8回潤の会

<<   作成日時 : 2013/06/03 16:05   >>

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 昨日、「第8回潤の会」が行われた。場所は川越の蔵里。レストランの一室(一角?)を借り切って昼食会、句会、懇親会と続いた。

 今年の初めころ、私が句会の後の喫茶店での雑談の時に、たまに会場を変えて句会を開くのも楽しいかも、と何気なくつぶやいたのが始まりで、メンバーの中から、3名の幹事役が出てくれてあれよあれよという間に川越での会が整えられてしまった。この間のすばやい段取りは見事なものだった。本当に素晴らしい行動力だ。

 こちらが会場になった蔵里の概観。

 
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  肝心の句会だが、今回は私なりに問題点を見つけてしまった。それは作品の模倣ということ。昔、私がいた沖の句会でも(特に師の作品の)模倣ということはあった。いや、これはどこでも前に進もうとする時に避けては通れないことだと思う。

 私たちは前に進みたい時、自分の作品をもっと良くしたいとき、先達の良いものを見、真似たいと思うことがある。「こういうの、いいなあ。私にもできないだろうか」何もないところから作品を生み出すのはかなり難しいことで、遠い昔からおそらく何らかの方法で、真似て(ヒントを得て)作品はできてきたのだと思う。

 かくいう私も他の人の作品に大いにヒントを得て、俳句を詠んだことは数知れない。では模倣の何が問題なのか。端的に言えば、模倣がはっきり模倣だとわかってしまうこと。ようは、模倣が模倣のままで終わってしまっていて、その人の作品になっていない。つまり句のどの言葉も借り物で、そこに本当の作者の感動がないのがいけないのだ。


 自分の感動を自分の言葉で俳句にする。自分にはどんな言葉があるか、どの言葉が自分のものなのか、リズムや仮名遣いまで入れて考えていったら、自分の表現を作り上げるということがいかに大変なことか、こうして書いている私もうんざりしてしまう。

 昔、沖にいたころ、感動を詠もうとは言われたが、「自分の」というのは、なんとなくタブーのように思われていた。花鳥諷詠全盛だったからね。(今も?)でも20代の私は、そのことがずっと腑に落ちなくて、どうして俳句だけ、自分をおさえなくちゃいけないんだろう、と思い続けていた。いいなと思う作品にはきっと作者の思いが込められているのに・・

 当時、そんな私の悩みに明解な答えをくれたのが、(これまた若き日の)夏石番矢だった。彼のスパッ、スパッとした切れ味のよい言葉は、そんな私の悩みにあっという間に答えを与えてくれ、さらに(少しずつではあったが)自信と勇気までくれたのだった。とこれは余談。

 次の潤の会からは、こうしたことを少しずつ話していこうと思う。もう、そんなことなど必要ないくらい自身で努力を続けている人も中にはいるけど・・・

 

 
 

 

 

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