「吟遊」第90号が届いた

 今月は、足の痛みをごまかし?なだめ?労りながら、作業を進めている。時々、夫や娘が「どのくらい治った?」と声をかけてくれるのが嬉しい。そんな日々を過ごすうちに、ようやく「吟遊」第90号が納品された。

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 明日は、乾佐伎さんも来れるというので、一緒に発送をする。幸い、埼玉県はコロナの厳しい宣言下にないので助かった。

 

今日の一句 かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す 

 この一週間、整形外科に通ったおかげで、だいぶ楽に歩けるようになった。あとは身体の中からも、治るような食事を工夫しないと。そんなことで少し、気が楽になった。いや、年月が経つと、身体も変わっていくんだね。せめて、俳句はさび付かないようにしたいけど… 

 久しぶりに今日の一句。

 かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す 正木ゆう子 句集『悠 HARUKA』より

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 家の外を風が吹いている。部屋にいて風の音を聞いていると、窓ごしにビュービュー、風がうなりながら過ぎて行く。その風の重みに耐えかねたように、窓もカタカタ鳴る。

 何という風の激しさ。少しでも油断して戸など開けようものなら、家を自分を、何もかもまるごとさらって行きそうだ。この冷たく鋭く容赦のない風に、日々、ただ囲まれているしかないのか。ひたすら座って、通り過ぎるのを待つしかないのか。

 と、そこで、胸の底から強く激しい思いが湧きあがるのに気がつく。この風をはね返したい。負けたくない。このまま風に取りまかれて、打ちひしがれたように生きるのはいやだ。

 そう、この風を飼ってしまおう。飼いならしてしまうのだ。それも鳥の王者ともいわれる鷹として飼うのだ。日々、声をかけ、餌をあげ、撫でて、一緒に遊んで、友だち同士になるのだ。

 そうなれば、この恐ろしいまでに吠え猛る風も恐くない。「ああ風ね。今日も元気ね。いいことだわ」と、平然とやり過ごせるだろう。

 この句の「飼ひ殺す」の向こうに、負けず嫌いな作者が見え隠れするのも、何とも楽しい。

今日の一句 切株の茸かたまる時雨かな

 整形外科に通う日々が続いている。病名は変形性膝関節症。立派な膝の病気だそうだ。レントゲンの結果、この病名をつげられた時は落ち込んでしまったが、このところ、毎日、整形外科に通って治療しているうちに、だいぶ痛みが取れてきた。治療は、超音波やカーボンの光を当ててもらったり、軟膏を塗ったり。膝のどこにどんな作用が起きているのかはわからないが、とにかく労りながらでも、暮らせるのは嬉しい。そこで、元気が出たところで久しぶりに今日の一句。

 切株の茸かたまる時雨かな 小林一茶『一茶俳句集』より

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 茸は、森や林の湿った倒木や切株などに生えていることが多い。じめじめしていると思いながら歩いていると、茸を見かけたりする。この句の茸は、切株に生えていた。「かたまる」だから、茸は二つ、三つ、いやそれ以上あったかもしれない。のんびりとくつろいでいた茸たちに、サアーと降りかかった時雨。

 「やあ雨だよ」
 「大変だあ」
 「どうしよう、逃げ場がないね」
 「もっとこっちに来ないかい。くっつきあえば、雨を避けられそうだ」

 耳を近づけたら、こんな茸たちの会話も聞けるかもしれない。

 この句から見えるのは、切株とそこに生えている複数の茸たち。折から降ってきた時雨に、一茶は、茸がおのれの意思でかたまると見たのだ。さすがに、「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」の一茶である。

 さわさわ茸のあたりが賑やかそうに見えたのは、雨の音ばかりのせいではなかったのだ。

今日の一句 鮎たべてそつと重たくなりにけり 阿部完市

 今日は久しぶりに俳句。

 鮎食べてそつと重たくなりにけり  阿部完市 『現代の俳句』より

 
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 鮎は体長およそ20センチメートルほど、やや緑がかった灰色、華奢ですんなり細身。4月から5月ごろ、産卵のために川に戻ってくると、その可憐な姿のままに泳ぐという。「清流の女王」と呼ばれるのもうなずける。

 私が鮎にお目にかかったのは20代だったころ、信州を旅した時だった。残念ながら泳いでいる姿ではなく、食卓の皿に乗ったそれだった。確か焼いてあったと思う。これが鮎。尻尾のあたりに焦げ目があったが、予想していたより小さいな、と思ったことを覚えている。

 食べてみると、藻類を主食とするだけあって、淡白なあっさりした味わいで、ほのかに苦かったことを思いだす。さらに、食べられる身の部分より骨の方が多いくらいで、あっけなく食べ終えてしまったのだった。

 阿部完治市の句「そつと重たくなりにけり」が生きるのは、確かに鮎だからと納得せざるを得なかった。

 人は、何かを食べて生きていく。何かの命をもらって、いただいて、食べて生きていくのだ。食べた証、頂いた証に、身体が重くなる。日ごろから人間および生命を深く捉え、思考していなければ、できない発想だろう。

 阿部完市はひょうひょうと言葉を使っているようで、実はち密に心をたずね、言葉を探す俳人だった。